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南蛮渡来

遥か彼方の国・ポルトガルから
南蛮船と共に現われ,ロマンを与えるコンペイトウ

1.南蛮菓子のコンフェイト

 天文十二年(1543年)種子島にメンデス・ピントが漂着し
以来ポルトガル船があいついで来航することになる。
黒々とした船体。蜘蛛の巣のように張り巡らされた帆網。
南蛮船の帆柱には,十字架や王家の紋章を縫いとった白帆が旗めいていた。

 マントをひるがえし,カピタンが現われる。
船から荷降ろしされるきらびやかな箱の中には、
日本の人々がかつて見たこともない異国の品々が納められていた。
鉄砲・時計・望遠鏡・眼鏡などにまじって、「南蛮菓子」があった。
中でも人目を引いたのが「ビ-ドロ壷」の中でキラキラ輝く<コンフェイト>であった。

 耶蘇教布教師のフロイスは、永録十二年(1569年)に布教許可を願って
織田信長に土産物を献上した。
その中にガラス瓶に入ったコンフェイトがあったといわれている。
この頃、いかに貴重な珍菓であったかが想像されます。

 今から遡ること,420年前のことです。
日本人で一番最初にコンフェイトを口にしたのが
当時36才の気難しい信長であったというのですから
なんとも愉快な出会いです。

2.コンフエイトに関係する人物

(1) ルイス・フロイス
 Luis Frois  1532~97

 ポルトガル人宣教師。リスボンに生まれ、16才でイエズス会に入る。
聖パウロ神学校に入り、そこで日本人ヤジロ-と接触する。
52年に、日本より帰着したフランシスコ・ザビエルに会い
日本の事情を伝え聞いてたちまち日本熱にうかされることになる。

 54年に司祭に任じられ、63年(永録6年)の秋に渡来した。
ザビエルに遅れること14年である。
その後、日本語や日本の習慣を学び、65年に上京して将軍足利義輝に会う。
ところが、義輝が殺されたので、次に織田信長と会い
とうとう南蛮寺における布教許可を得ることとなる。
このとき、彼が信長に献上したお菓子が<コンフェイト>なのである。

   フロイスは,九州で活動することが多く、日本史の編纂にも従事した。
彼の功績としては、自らの目をもって観察した当時の日本における
さまざまな事象を克明に写したおびただしい数の書簡を残したことにある。

 1597年2月5日(慶長1年12月19日)に26聖人の殉教を目撃して
失意のうちにおよそ半年後に長崎で没した。

(2) 織田信長
 天文3年5月11日頃(1534~1582)

 信長の生誕の日は,天文3年までははっきりとしておりましたが
日の特定についてはこれまで明らかとはなっていなかった。
が、「信長公記」とルイス・フロイス書翰(1582年11月5日付け)から
5月11日説があらわれました。

 織田信秀の子・信長は、「桶狭間の戦い」において
今川義元を討ち、尾張一国を統一。
その後、京都に上って比叡山を焼き、浅井・朝倉氏を破り
将軍足利義昭を追放(1568年)。
天正4年5月に武田勝頼を三河の「長篠の戦い」において討ったとき
3500人の鉄砲隊が用いられました。
この戦さが、鉄砲を使用した日本で最初の合戦であります。

 「うつけもの」と言われ,タブーとされていたあらゆることに挑み
天下統一を目前にしていた信長でさえ
不安とためらいを感じていたものがありました。
それは、数千の僧兵を擁す信仰の拠点「比叡山」でありました。

 「南都・北嶺(奈良の興福寺と京都の延暦寺)を滅ぼせば
王法のたたりがある」との法難のおそれさえももろともせず
信長は元亀2年(1571年)9月12日に比叡山を焼打ちにします。

 「天魔の所為」と人々を仰天させたこの比叡山・延暦寺の焼き打ちを
決意させたものに、イエズス会宣教師フロイスの影響を思わせます。

 1569年の初めての会見以来、18回も会っている両者。
信長が傾聴したのは、フロイスが語る布教の闘争史でありました。
この外国の史実を聞き、信長は山門を恐れないようになったと考えられます。

 天文3年生まれの信長は、このとき36才のはずなのですが、フロイスによると
『尾張の王は、年齢37才なるべく、長身痩身、髭少し、声甚だ高く、
非常に武技を好み、粗野なり。
正義及び慈悲の業を楽しみ、傲慢にして名誉を重んず云々』と、あります。
この信長の年齢の読み違いにも「謎」が生じております。

(3) フランシスコ・ザビエル
 Francisco de Xavier 1506~52

 スペイン人のイエズス会宣教師で、日本キリシタン開教の先駆者。
スペイン名はハビエルというが、ポルトガル勢力圏で多く活動したため
ポルトガル名のザビエル(正しくは,シャヴィエル)で呼ばれた。

 彼は、スペインとフランスに挟まれた、ピレネ-の山奥の城主の子として生まれた。
  名門の出で、父は総理大臣になったこともあり、彼はその第六子。
1525年にパリに留学などしたが、心機一転イエズス会創設に努める。

 40年、ロ-マ教皇の勅許を得て、またポルトガル王・ジョアン3世の要請で
インドの教王代理となり、42年ゴアに到着する。
ここから彼の超人的な伝道活動がはじまる。

 セイロン島・マラッカなどを中心に布教。
たまたま、46年にマラッカで日本人ヤジロ-(アンジロ-ともいう)なるものに会い
日本伝道を思い立つ。
1549年、ヤジロ-を案内人としマラッカを出発
2カ月後勇壮に噴き上がる桜島の噴煙に迎えられ鹿児島に上陸
日本への第一歩を踏み出した。

 当初、領主の島津貴久に従事したが
京に上り国王から日本の布教許可を得ようと考えた。
50年に京都に着いたが、当時天皇の権力は無力であり
布教は思うように行かず、失意のうちにわずか10日あまりで大阪・堺に戻ることとなる。
このとき、傷心のザビエルをもてなしたのが豪商日比屋了珪である。
その後は,平戸・山口などで布教を行う。

 しかし、彼の日本と日本人に対する期待は意のごとくならずインドに帰ることとなる。
1552年,中国開教の旅の途中に、熱病にかかり没した。
彼は二十才の頃、転身するのであるが
これは当時のヨ-ロッパで、ルタ-などによる宗教改革の嵐が吹き荒れていたことが
敬虔なキリスト教徒であったザビエルに影響を与えたのであろう。

 彼のこの転身がなければ彼は日本に来ることもなかったし
またヤジロ-との出会いやフロイスに日本のことを話すこともなかつたのであろうから
当然フロイスが日本に渡来し、信長にコンフェイトを献上することも
なかったのではと思われる。

人と人との不思議な出会いを感じさせてくれる。

(4) ヤジロ- 
[アンジロ-ともいう.] 

 池端弥次郎重尚という名の武士(らしい?)。
ザビエルを日本に連れてきた男。

 1546年,南蛮船に乗ってひそかに日本を脱出。
それから3年後、黒衣をまとった南蛮人達を伴って故国の土を踏む。
この南蛮人こそ、日本に初めてキリスト教を布教したイエズス会宣教師、
フランシスコ・ザビエルの一行であった。

 日本史の上でこのように重要な役割を果たしたにも拘わらず彼の正体は
謎に包まれたままであった。
ヤジロ-はポルトガル語がわかり、薩摩半島において貿易に従事していたが
ある時仲間割れが起こり人を殺してしまう。
役人から逃れるため,ポルトガル船に乗り込み日本を出ていくのである。

 逃亡中の中国・寧波(ニンポ-)で聖人ザビエルのうわさを聞きつけたヤジロ-は、
マラッカの「丘の聖母教会」で運命の出会いをする。
洗礼を受け「聖パウロ学院」で学ぶヤジロ-の聡明さに感銘をうけたザビエルは、
このとき日本布教を決意したとされている。
そして、ヤジロ-が案内人となりザビエルを伴い
マラッカから中国人アバンの海賊船に乗り帰国する。

 南蛮人を連れ帰ったヤジロ-のうわさは町中に広がり
領主の島津貴久の耳にも届くところとなり
そこからザビエルはキリスト教布教の許可を得ることとなる。

 一年間、鹿児島で布教活動をしたザビエル一行は、
ヤジロ-を残して平戸・京都・山口などを経て、インドに帰った。
残されたヤジロ-は、その後に起きた迫害の中でキリスト教を捨てたといわれる。

 彼の最後を記したものに,「日吉池端古文書」である。
そこには「永録三年(1560年)、山川港と称寝(根占)港の中間で南蛮船と
中国船との交易上の争いがあり、
仲裁に入った池端弥次郎重尚が火矢弾に当たって死んだ。」とある。